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2012年7月16日月曜日

中沢新一と内田樹というオバサン二人の漫才(完)

最近、読んだ書籍についてほとんど書かなくなったね。書きたくなくなって1年たっただろうね。というか、実は読みたくなくなって1年経つわけよ。やっぱあー去年の3月11日以降、どういう訳か、というより、理由など知ろうとも思わなかったけれども、その日とどうも符牒していて、ちょうどそのときは「大佛次郎 天皇の世紀」第五巻を読んでいて、どうも、進まなくなり、現在1年経ってもやっと六巻の前半だし、ほかの本もぺらぺら読みしかできなくなった感がある。それでも、渡辺京二の名著「逝きし世の面影」はだいぶ読んだが、読了できずに、というよりもペラ読みどころか、雑誌と新聞すら、読もうとしない体質に変化までしたかのように、読まなくなった。

去年、死ぬまでに何冊読めるかの僕の計算で750冊のみと(2011年1月ブログ)出て慄然としたことがあったけれども、今や慄然どころか、まあいいじゃん体質になったようだ。まあ、進歩だね。進歩って言葉も腐ってだいぶ経つから、言いたくないなあ。ちょっとだけ「頭が丈夫になった」と言っておこうか。この頭が丈夫な「風な」二人の対談本が中沢新一、内田樹の「日本の文脈」(角川書店)で、どっちかが養老先生に教えてもらったとかで、頭の丈夫な人間について語っていたので、それからの引用。だから、これもたいして意味があるわけではありません。

僕の性格だからはじめにいってしまうので、演出的ではなく、展開を危うくして仕舞うわけであるが、どうしても性格なので我慢できずに言いますが、おもしろい本だし、僕にとっては学べることも多い対談本であった。が恐ろしいほどのペダンチックな機関銃乱射で、辟易するのが普通だと思う。おもしろい本だと曖昧に書いたのはペダンチックだけではなく、本当の意味での前衛としてタイトロープの上をひやひやさせながら、かつ怪しげに渡っていこうとするエバンジェリストの仲良し(この本によると会いだしたのは最近らしい)ふたりの漫談なので、受け狙いでその分「反常識」を振りまくリップサービスも多いからだが、思想に誠実に取り組んでいるその筋の分野の特に女性からは、批判や非難が出そうな口のなめらかさがあって、酔ってはなくとも「ハイ」の感じで、何回かの対談をしているからなんです。

「贈与が経済システムを変える」「日本人は国民的規模でトリックスター」「キリスト教のお節介」を肯定的にな言葉で使う。「ユダヤ教の始原の遅れ」「日本人の得意な換骨奪胎」「中空構造の日本文化はヨーロッパ人にはスノッブに見える」「村上隆のスーパーフラット」「里山は、日本文化の達成、日本文化が生き延びた大きな要因」「万世一系といわれるくらい、一つの系統が続いている王権はない」「清水次郎長の明治維新後の社会貢献」「昭和残侠伝 人斬り唐獅子」「仁義なき戦い 代理戦争」「映画の中で菅原文太が安全保障って実際に言うんです」「日本人は自然にオーバーアチーブできる」「オバサンがいなくなったのが日本の問題」「正しいおじさんは女性ジェンダー化するんです」「レーニンは革命的オバサンであった」

大事なことは、日本は農業大国を目指すべきである、これ以上大事なことはない、と僕はいま、強く思っている。もちろん言うまでもなく工業を放棄することでない。重要なことは開発技術、生産技術などを惜しげもなく、アフリカやアジアの最貧国に惜しげもなく、この二人の言葉を使えば贈与することである。我が東方の、最東方の大きな島日本国は奇跡とも言っていいような文明と文化を人類の偉大なる東方へのジャーニーとともに、そしてそれ以降も地球の自転に逆らうように伝播し続け、ユーラシア、インド、中国、シルクロード、朝鮮半島から、それは誰おもが認める文明の遷移となった。銅の作り方、鉄の製造、高度な武器、稲作、漢字、仏教、そしてその白眉は渡ってきた大陸人による弥生文化の開幕だろう。そういう頂き物を僕らは放っておくのか。

日本は40年後に8000万人台の、大きくはない国になるだろう。明治元年は3500万人だし、日本は6000万人で無謀な太平洋戦争に突入した。さてその頃までにどのように政治が右往左往するか全く不明だけれど、実はタイのお馴染みのクーデターのように政治領域は無視され、範囲を縮め形骸化していく可能性もある。電力やエネルギーの産業構造は大きく様変わりするだろう。2015年ぐらいには、読売・正力グループも減原発は言わざるを言わざるを得ない状況に追い詰められるし、続いて経団連も私的な家族たち、特に聡明な奥様たちに論破されつつ、さらには社員幹部に大胆な提案をぶつけられ、「UAEなみの第二のマスダール」やりませんかのような「大津波」を受け、同意せざるを得なくなるだろう。

ベトナムハノイには、チャンネルが70chほどある。このブログを書きながら、先ほど映画チャンネル「HBO」で「007は二度死ぬ」をやっていて、9割方見てしまった。理由は丹波哲郎さんが出ていたからだ。完璧な英語でショーンコネリーと堂々競演していた。浜美枝のボンドガールも当時の大学生になったばかりの田舎者の僕らには大いに話題であった。でも、なんと言っても丹波さんとは、「キーハンター」で、1970年から、1972年ぐらいまで東映の大泉撮影所(正確には製作所)でご一緒させていただいた。僕は早稲田を中退して照明部から助監督に成り立ての時代。本当の大人の魅力とはどういうことかを、あるいは「大人 たいじん」の風情・風格とは何かを僕に直に学ばせてくれた人であったのさ。

もちろん、当時大スターであった丹波さんと親しかった訳じゃあない。「ぺーぺー」の助監督がスターに話すことはせいぜい「丹波さん、そろそろ、出番です」と待機していたカフェーに僕が走っていって、お声をかけるくらいさ。すると元気な艶のある声で「いや〜そうか、よし。シーンはどこからだ」と返ってくる。21歳の僕なんかカチンコ持ちながら彼のそばに立っただけでニコニコさ。丹波さんの悠然は当時出色であった。1時間や2時間の遅刻はいつもだし、台詞も覚えてこない。遅れながらも「諸君、ボンジョルノ〜。仕事はすすんでいるかな」などとスタジオにはいってくるだけで、30名のスタッフの丹波さんへの遅刻の不満など一気に吹き飛んだものさ。すぐに、笑いの渦が丹波さんを中心にして始まるんだ。

そんなことを書いていたら、久しぶりに下半身に否、否全身に文字渇望の渦巻きが沸き上がって来たようで、昨日久しぶりに大型書店に行った。「J・L・ゴダールの映画史(全)」(筑摩書房学芸文庫)、アンリ・ルフェーベルの「パリ・コミューン(上・下)」(岩波文庫)、ジョセフ・キャンベル「神話の力」(早川書房)、H・G・ウエルズの「世界文化小史」(講談社学術文庫)を買った。一年ぶりに読みたいもの、ばばっと5分で買ったので、爽快感あったね。空腹感強かったからね。

ジョセフ・キャンベルのは、80年代に確かNHKの教育テレビでこの本の元になった対談があり、見たはずだ。たぶん数回にシリーズ化されていて、かなりの衝撃を受けながらじっくり聞いた記憶があり、それまでほとんどブランキやソレル、クラウゼビッツあたりにしか関心を持てないでいた、僕の狭量な劇的フィールドに天使・女神から、老子・荘子、ブッダらの主演級人物を上手(かみて)や下手、さらには天上から、登場せしめた対談であった。僕に視聴を誘い僕がビール片手に(確か17時ぐらいの放映であったような)ドッかとテレビの前に座らせたのはいつものように母のような妻であった。「面白いわよ、見たら。」とね。時代のわずかな胎動の響きを僕に教えてくれたのはいつも晃子だ。ああ、いつも奴さ。

で、早めに終えたいのでまあ、おばさんお二人のこの「日本の文脈」の評価をしておく。この本は僕は良書だと言っておくが、筑摩が網野善彦「日本の歴史を読み直す 全一巻」のキャッチとしてあちこちに流布させている「今、読んでいる本をやめても読んでほしい日本人必読の書です」ほど、力んではいいませんが、純情な「学徒」(居るのかな?)やえげつない論争などを経ていない柔な御仁はまあ、買って損する本、というより、「この二人への信頼が紛れもなく減退していく」と想像できる本だろうね。僕なんかのように矛盾したボロ盾もって、錆矛ふりまわしてきた中年の輩には結構おもしろく、アイディア満載の書に思えるだろう。対談本「仏の発見」(平凡社刊)の梅原猛さんと五木さんの対談に比べると刺激物が細々(こまごま)して、仕上がりは悪い(当ブログ 2011年7月)。

丹波哲郎さんを登場させたのは男オバサンをいきなり標榜始めたお二人の「オバサン」の使い方が余りにもつまんなくて、他者を魅了する人物の魅力のことを身近な経験で言っておきたかったからだ。オバサンは、特に男オバサンは、そういった人間身の色艶をほとんど消し去った存在だと僕には捉えるしかないので、超有名なお二人が身も蓋もないことをいい加減に(そう思えた)思いつきでいいはじめたので、大人物の後光指す魅力について、触れておきたかったのです。(強引に完)
・・・おいおい、いつの間にか8月だぜ。スタッフNGOCほかがいま、日本で仕事中で、過剰に忙し・・・。





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