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2011年11月2日水曜日

秋刀魚の味

このページは、小津さんの映画「秋刀魚の味」を論評しているモノではありませんし、そのタイトルでアクセス数を稼ごうとしているわけでもありません。僕なりの「秋刀魚の味」を自分の家族と生活の一部からちょっと味わってみようかなと思っただけです。映画にも秋刀魚や秋刀魚を焼く風景などはまったく登場しませんね。これもそういうことになるのかな。

仙台の実家にほど近いキリスト教系の老人施設にいる86才の母。幾分寂しそうだが、生活や環境は快適のようだ。母は昭和8年の三陸海岸大津波を故郷の志津川町で体験している。そのことは本ブログの今年3月の項にある。


去年94才で亡くなった父の祭壇。当校のスタッフたちから頂いたベトナムの弔意の布が背景に見える。

たいそうなタイトルにしたものだ。どのように書いていこうか迷う。大抵は頭の中で構想の大要ぐらいは練ってから、始めることが多い。でも、4,5日前に東京でNHKBSで久しぶりに映画「秋刀魚の味」をみて、タイトルとして「使えるな」とおもってメモしたのがこうなっただけ。今回の放映は画面の傷や揺れが修正された安心して見れる電子修正版のようで、まるでロードショーを見ているように画面がクリアだった。「秋刀魚の味」は「東京物語」もそうだとおもうけれど8〜10回ぐらい見ているね。「麦秋」もいいね。でも、実は僕「おはよう」が好きなんです。土手の脇の文化住宅での子供の兄弟の「おならのだしっこ」を軸に展開する戦後の一時期の希望と平和と青空に溢れた軽いタッチの佳作さ。

秋刀魚の味は、婚期を迎えた娘のデリカシーと親爺の不器用さをテーマにしており、まあ、いつもながらのストーリーだ。ぼくんちも35才位の娘がいる。外資系の雑誌出版社で海外出張も多く忙しくしているようで、「婚期」に無関心のよう。いまさら、彼女の恋人のこととか、聞きにくいし、母親が居ない分、ぼくが色々タッチしたほうがいいかなあ、と思いつつ嫌われている様だ。
まあ、自分の娘だと分析しにくい。はっきり言って心とか読めない。他人は結構読めるんだがねえ。結婚して子供がいる30才位の弟の方は男子故、何となく「掴める」。そういえば自分の子供の年齢が幾つか怪しい。無関心なのかなあ。世間のオトーさんは、何時も子供の年齢を把握しているのかしら。そういえば、女房の誕生日がいつもうろ覚えで彼女に叱られた物だ。7月23日か24日なのだが、何時も間違う。まちがうので、「あれじゃあないので、ぜったいこれだ」と意識的に思っていってもまた、反対で、いつも23か24か、今でも間違うのだ。否いな、24日だ・・。あれれ、23日だよね。ごめんね、天国の晃子(てるこ)。

と言うことを書こうと思ったわけではなく、94才で去年3月亡くなった父と、いま、86才の母の事をたまには思い出して、と考えて、書き始めた。父のことは2010年3月のページに「評伝」まがいの第一部をしたためてある。母は、元気だし、仙台の実家にいる弟が面倒見てくれているので不安が無いけれど、先日石巻の大川小学校に行ったついでに母に会った。血色も悪くないけれど、いま彼女は、自分の少女時代に舞い降りて居るようだ。自分の母と時々父に会いたいことを言う。「何処に行ったのかしら」とも言う。軽いアルツハイマーの世界のなかで、自分だけの思い出を物語りにしているようで、そんなことを語るとき一瞬少女の表情を見せる。

その彼女が、まだ元気であった70才代に恋への情熱を傾けた短歌を猛烈に書き始めた。先日立ち寄った際、弟から初めて聞いて、大量の作品を手に取った。70の手習いだから、短歌の指導の先生も相当まごついたと思われる。遮る物はまるでないかのように次から次へ、一点を見つめた恋の炎が燃え立っている歌、詩。か細い彼女の何処にそのエネルギーが渦巻いていたのだろうと不思議でならない。誠実で学究肌の父とは違う 美しい影をもとめた作品は一級品ではないが、70才の老婆の、女としての出口を何処に求めればいいのか、全身で模索する魂の詩のように僕は作品集や短冊を手に取りながら感じて、溜息のような息をはいた。僕の「秋刀魚の味」は娘の嫁問題ではなく、母の少女問題であるようです。
 *写真は1955年頃、仙台福沢の新居で。30才ぐらいの母と9才年上の父。長男の僕が真ん中。僕の脇は、年子の次男と生まれたばかりの三男。

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