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2011年1月29日土曜日

古典映画をハノイのテトで / 僕たちの界隈(2)

■前にも賞賛したことがあるが、300円とか500円で古典映画DVD買える時代はありがたい。先日もハノイに来る直前に見ていないめぼしいモノを買ってみた。小津さんの「戸田家の兄妹」(1941年制作)、「お茶漬けの味」(1952年)、溝口健二監督の「武蔵野夫人」(1951年)、レニ・リーフェンシュタール監督の「意志の勝利」(1934年)、また、D.W.グリフィスの「国民の創世」(1915年)と「イントレランス」(1916年)の二連作、「望郷」(1937年)、「大いなる幻影」(1937年)。ハノイのTET(旧正月)の暇なときに見ようと思ってね。一昨日「戸田家の兄妹」見た。僕らが戦後の大船調として感じている一連の小津安二郎監督の作品、例えば「麦秋」「晩春」「東京物語」「秋刀魚の味」の基礎編と思えばいいかな。小津さんは1930年代、40年代と戦時中だろうと毎年数本の多作を松竹から送り出している。だから、戦前、戦時下の作品と戦後の作品の実は転換期すらなく連綿として、多くの大船調の中核をなす小品を作り出している。

溝口の「武蔵野夫人」は原作が大岡昇平だ。長尺の俯瞰からの移動カメラとか、溝口監督らしい作りっぷりだ。でも映画の芸術性の特有の時代性が、普遍性を減じているのが悔しいね。つまりだ、芸術作品って、どんな時代の風雪にもたえて、永遠に人々に影響を与える射程距離の長い普遍性を持った作品にあたえられる称号だが、映画芸術の持つ特性は時代を映すものであり、時代を超越しようとする芸術性との矛盾を抱えている。当たり前のことなのであるが、映画表現のどこかに時限性が伴走しており、他の芸術分野とは違う側面がある。

ベートーベンの曲もショパンも、オーネットコールマンも、チャーリーパーカーもまさに時代を超えて、今も、ストレートに僕らの心臓に刺激を与えられる普遍性を有している。ピカソやマチス、写楽や広重だって、今でも、まさに僕ら世界中の人々に当時の生のままで影響を与え続けている。文学も翻訳というフィルターを通すハンディーがあるにもかかわらず、世界中の古典文学から、今でも新鮮な普遍的な知的財産をいただいている。でも、僕らはかつて時代を画した芸術作品と言われる映画を鑑賞する際、極めて冷静に時代背景と技術水準を事前に知った上で、その製作の時代を配慮しながら古典として鑑賞せざるを得ない面が強い。映画は20世紀に登場した「複製という新しい表現:媒体」であるいう面と共に、評価の仕方も他の分野と違うのだろう。

「お茶漬けの味」見始めてすぐ、2,3度見たことを思いだしたが、また見た。いいねえ、大船調の絶頂期の作品の一つだ。わがままな妻と口数が少ない中年夫婦の倦怠と仲直りのまあどうでも良いたわいないホームドラマだ。佐分利信、木暮実千代、三宅邦子、鶴田浩二などが、若々しくて良いね。僕大好きさ。

「意志の勝利」。言わずと知れたレニ・リーフェンシュタールの傑作の一つだ。20年ぐらい前だろうか、池袋の西武美術館での彼女の特集展示に行ってみたことがあった。この映画はドイツナチス党の党大会のドキュメントで、ゲッペルスの指示の下にこの作品ほか一連のナチスの宣伝映画を製作したとして、美貌の女優でかつ天才的ドキュメンタリストになった彼女が第二次大戦後、迫害されたいわく付きの作品である。イタリアでは、ファシストの建築を中心にしたファシズム芸術が当時盛んであり(丹下さんの東京都庁ビルもそれっぽいね)、ナチスも「統一と服従の美しさ」「ギリシャの神々的な金髪と青い目への憧憬」「意志と肉体美」「荘厳さ」をプロパガンダとして大動員した。そのときの先兵がこの映画さ。

こういうのは日本人も昔から好きなんだよね。別に三島由紀夫さんだけでなく、僕らの肉体の一部に今でも、多分住み着いているある意味で自然な情感の一つだ。ナチスや北朝鮮の「美しい」行進を見ていると、人の心は不安定にされる。乱されると言った方が良いかな。ああいうものを排撃しなければいけないとする良識の知性と、でも「やっぱー気持ちいいね」とそれを認めようとするアンビバランツな心。十代後半から二十代前半までベトナム反戦闘争を激烈に体験した僕は、たまにハノイで見るベトナムの兵隊さんのばらつく行進に思わず微笑んでしまう方だねえ。

映画の父と言われるD.W.グリフィス監督の「国民の創生」と「イントレランス」のいわば二部作は超有名だし、特に二つ目は”イントレ”という映画業界の鉄骨台の業界用語も生んだ著名な巨作だ。昨日「国民の創生」を見た。サイレントでモノクロの3時間モノ。内容は南北戦争とクー・クラックス・クラン(あのおどろおどろしいKKKだ)の創生の話だ。リーンカーンの暗殺も英雄視した完全に奴隷解放阻止の南部の立場にたった内容で、人によっては全編見ずに途中で止めて”いろもの”というか際物の非道い作品だと言うだろうね。北軍が勝利し、黒人が南部で権力を持ち始め、白人を圧迫し横暴になってきたので、それを粉砕するために白人の郷土の有志が立ち上がったというストーリーだものね。

アフリカ系(つまり黒人)の登場人物は全員悪人か粗暴のバカどもという今じゃあ、到底出来ない凄さだ。日本人の僕としては初めての体験だし、まずは大いに驚いた。白馬にのったKKKの武装軍団が、白馬童子というか、月光仮面というか、悪いインディアンから助けてくれる騎兵隊よろしく、颯爽と現れて救難してくれると言うお話しが3時間続く。むむむ、だね。でも、何でも自由自在な視点で見る慣れもあるし、また世間の辛苦をがむしゃらに体得してきた僕としては「思想の耐性」が充分さ、こう言う手合いのでも面白く見れる。「ああ、そういう見方もあるんだねえ〜」とね。

■さっき、つまり30日夜、ハノイのスターチャンネルで「アリスinワンダーランド」があるというので、外食もそこそこに引き戻り家族揃ってテレビの前に座った。監督のティム・バートンは、ヤッパー天才だね。「シザーハンド」「バットマンシリーズ」「チャーリーとチョコレート工場」などの実績は現代最高の監督の一人といって良いだろう。実は僕、天井飛び抜け大天才監督のケンラッセルの正統の系譜がティムだと勝手に思っている。だってさ、誰かケンラッセルのあの映画超えた人いる?ミュージカル「トミー」を超えた作品作った人何人いるか〜。僕がいま、こうして言いたいのはさ、その「トミー」に大いに迫ったのがこの「アリス」なのだと言いたくて。本当にプロの仕事だね〜と唸らせてくれる。

興奮冷めないままに言うけれど、ジョニー・デップも良い。アリスの少女女優も最高。ホワイト王国の女王などは、当校のオフィスで仕事をしていて、昨秋NHK「かわいい」にでた美人のPHUONGさんそっくりで嬉しくなるし、奇天烈なキャラたちが、日本人に馴染みやすい身ぐるみ系なのも嬉しいのだ。トトロに出てくる「猫電車」キャラなどを堂々とパクッているのなど、愛嬌だよ。アメリカの人形キャラは「キャベツ人形」以来気持ち悪いのが多いからね。「不思議の国」っていいところだね〜。勧善懲悪がまだ健在だし、良い奴がたくさん出てくるし、悪い方もちゃんと改心してくれる。さあ、みんなで行ってみよう。僕たちの心の底にある懐かしい不思議な国にさ。

そういえば、音声が英語で、スーパーインポーズがベトナム語のこの映画を見ていて僕は映画の理解が全く不自由じゃあなかった。2時間というもの全くそれに気がつかなかったぜ。まったく、脳髄の中では言語を超越した最高の映画体験ができたよ。マルセル・マルタン「映画言語」(みすず書房)のタイトルそのものだ。生意気盛りの20才の頃読んだ印象深い本の一冊さ。映画は、画面から人類言語で語っているって。ともあれ、ブオンもリンも大いに笑い、楽しんだのが何よりで、年の瀬らしく、小さい幸せいただいた。

■僕たちのいるレータンギー界隈には、大小の食堂がある。チャーハンを主なメニューにしている店があり、2年ぐらい前まではでっぷり太ったゴッドマザーがお店を切り盛りしていたが、近年代替わりして、長男とその嫁さんの時代となった。その30才ぐらいの新店主が完全角刈りのヤーサンスタイルで、入れ墨も凛々しい。この若い店主は、どうもそのあたりの人気者のようで、ちょっと前まではチンピラで、結婚したので、母親から調理の修行受け、やっとこさ落ち着いたって口だと思うえる。いろんなTATOOの若いものがしょっちゅう食べに来ては、ビール飲んでたばこすスパスパさせては大声で悪ふざけして出て行く。彼が店頭で中華鍋でXAOっている(炒める)フォーやご飯を炒めている時間もひっきりなしに路上を通る元仲間とおぼしき連中からお声が掛かるんだ。たばこを口にくわえながら、連中に「おおーお前か、景気はどうだ?あの女と上手くやってるか」みたいなことを大声でやりとりしているので、大きな中華鍋に隠し味ならぬ唾と灰が適度にまじるってものさ。

ベトナムのこの手の食堂は日本の八百屋の「現金ザル」同様にくたびれた札でいっぱいの一斗缶や机の引き出しで、金の出し入れをおこうなっている。このお兄さん、母親と身重女房の隙をみて、たまにパパッと引き出しからたばこ代をくすねては、隣近所のインターネットカフェでくすぶってる連中とビールで乾杯。どうも中華鍋での炒めものは重労働だから、そっれ以外は、あとは、腹のでっかい女房にお任せのようだ。でも、牛うどん、鶏うどんなどを女房も奮戦して作っているが、旦那の中華鍋のさばきのチャーハンほどの味は出せていないようだ。

先日紹介した乞食のおっさんのそばでおこわを売ってる中年のおっさんがいる。2年ほど前から始めたと思う。可哀想にはじめはお客がてんで付かなかった。入れ墨した中年男が無粋な顔で無口に店張っても、日本と同じだね、食欲が湧かないのさ、いつもランニングシャツで汗かいてるし、手には健気にビニール製簡易手袋してはいるのだが、清潔感は生まれない。今年になったら何故かカウボーイハットを脂ぎった頭に召して、格好がいい。そして、2年もやるとお客もいつの間にか付くもので、僕も試しに去年秋、頼んでみた。例の良くある「するめ状」の豚肉をほぐしたモノを多めに乗せてくれと頼んでね。すると親父、結構物腰が柔らかく、ほかほかと湯気の出ている釜から、茶碗で掻き上げてすいすい手早く包んでくれた。で、旨かったよ。人は見てくれで、思い込んじゃあいけない典型的な例だが、この親父に売れるためのマーケティングの基礎編教えたくて教えたくて。いま、タイミング見ている(余計なお節介とは承知です)。

この界隈にはテントで覆われただけの市場もある。中は小さないろんな食堂がひしめいている。物販店に負けない数がある。ブンカ(揚げた魚をのっけてくれる丸麺うどん)も旨い店がある。在ると言っても、コンロと「ズンドー」大鍋の周りに簡易のプラスチックテーブルとお風呂によくある安手のプラスチック椅子を並べただけさ。だから、5,6店在るのだが、店の境目がはっきりしない。ブンチャの店もあって、小綺麗なネーチャンが切り盛りしてる。ベトナムの女はブオンもそうだが、30過ぎると怖いモノなしの面構えになる。この女店主も昔は「レディース」で浮き名をながして、神田の生まれよ、と啖呵切っていたような江戸前風情で、ブンチャの豚肉を七輪で焼いて、スープに瓜の薄切りをいれる製造過程から、客あしらいまで、一人でテキパキと回転させている。見ていて快感だ。客を客とは思わず親しげで、ブン麺を盛った皿など、客に命じて彼女から遠い客に手渡させたり、自由自在で八面六臂の活躍ぶりだ。そのうえ、彼女の愛用のジーンズが昔で言うヒップボーンなので、どっかり腰を下ろしている彼女を後ろから眺めるとジーンズがセクシーな大きめヒップに下方に引っ張られて、色とりどりのTバックが毎日拝めてしまうというサービス付きなのさ。美味しいだけじゃあないんだ。嬉しいね。

去年の今頃のブログにも書いたことだが、ベトナムの「師走」は、日本と違って、元旦の3,4日前から、故郷へ民族大移動が起こるので、「年末になるほど」街は閑散としてくる。本年の元旦は2月3日木曜だから、そろそろ、その兆候は出ているよ。オートバイの数がめっきり減ってきた。でも、その分スピード出すから、返って危険度は増してくるんだ。つづく・・

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