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2010年12月25日土曜日

★ 停電って、何だか心躍る / 乞食のおっさんのいる僕たちの界隈

■大佛次郎「天皇の世紀 文春文庫全十二巻」の第四巻130ページを読んでいたのが11月21日のブログに記してあるので、今日はまだまだの同巻の320ページだから、読書の進捗は低迷していたわけだ、この一ヶ月。勤王の志士たちの狂気のテロリズムと豹変志士の日本。尊皇攘夷のテロリストの一人である伊藤博文は開国派のイデオローグを斬り殺した経験もあった。でも、同時に文明の西洋にあこがれ、日本を離れたり、終には総理大臣になったりと、第二次世界大戦後1950年代「転向論」が鶴見俊輔や吉本隆明などによって論争があったが、幕末の志士が、文明開化に転向してゆく”自然さ”は、日本人論を構築する上で、一番のサンプルかもしれない。ともあれ、攘夷は狂気の台風として、武士階級だけでなく、一部の富裕町人階層も包含して、全土を吹き荒れた。

■停電って、結構わくわくするものだ。僕らが小学校低学年までのころ、つまり、1950年代は、日本で停電はさして珍しい事ではなかったね。子供の自分にとっては、停電は、夜に決まっていた。昼も在ったのだろうが、外で転がるように走りまくって遊んでいた僕らは気がつく術もなく、夜の遭遇が刺激があった。ラジオも消え、部屋中が真っ暗。すぐに、弟を脅かそうと、懐中電灯を顎から上に向かって照らして、フランケンシュタインを演じたりしたものだった。現代ほどではないが、煌々と部屋の団欒を照らしていた「マツダランプ」の常態が、いきなりいつもと違う「闇」に転ずるわけで、僕らガキたちにとって迷惑さは皆無で、いきなり劇場の舞台を与えられたごとくワクワクしたものだ。

この前、ハノイで、ベトナムのしょっちゅう起きる停電を汚い言葉で難じた正統なサラリーマンが居たので、鼻白んだことがあったが、僕らの国でも、停電は時々あった戦後の時期を彼は年齢的に知らないのだから仕方ないが、そういう己(ニッポン)の過去の環境ぐらい、想像できない頭の悪さを腹の虫の居所がたまたま悪かった僕は奴を罵倒した。あとで、やや反省したが、そういうちょっと前のニッポンが北朝鮮と同様な軍国主義であったとか、昭和20年代の荒廃の時代の日本は技術のぱくりと壊れやすい商品で一頃は世界中から、非難されていた歴史もあったとか、そういう40〜50年前のことぐらい、知識が無ければ想像力で補いやがれ!といったような、言わなかったような。

で、さっき、NHKのBSで「ニューヨークの停電」のドキュメントをやっていた。1968年とか77年とかの例の「出生率」向上したとか言う大停電とはちがって(結構多いね)、2003年の大停電の経験者たちのインタビュー中心のドキュメントだった。アメリカの明るいキャラもあって、どうもそのとき、ニューヨークの人々は、地下鉄もストップしたので、大変な迷惑を受けたに違いないが、それはそれとして、夏であったこともあって、オフィスに泊まってパーティーしたり、路上でバーベキューしたり、かなり、夜の暗さを単に楽しむだけでなく、非日常の人間関係を作り出し、結構事故を有効に使った人々が大勢いたことにハッとさせられた。アパートの住人同士の交流が出来たとか、長時間歩いて帰る途中に友人がたくさんできたとか、暗闇が意外なプレゼントを市民にくれていたようだ。我がベトナムでもレストランやピザハットとかで、僕も停電にかちあったことがあったが、その瞬間に悲鳴というより、「ヒャッホウ」と喜ぶ若者たちの歓喜の声が大抵、街中からわき起こる。暗ければ、つきあい始めの彼女に思い切ってキスの一つもしやすいのだろうし、次の展開に期待が生じるよね。

NYの若者が言っていた。「停電記念日」を作って、その日その時、電気に左右されない非日常を思い出し「不便さ」を楽しむ記念日を設けたらどうだろう、とね。なかなかまともな良い意見だね。特に日本人はこの10年、不便とか、合理的でない事を楽しむ人々というか、そういう気分が確実に醸造されているので、理解しやすい感覚だね、「停電の日」・・電気を使わない日の設置は面白いと思う。

■僕の居るハノイのレータンギーという地域は、東京でいえば、お茶の水界隈と言えるかもしれない。ハノイ工科大学やハノイ建築大学などが隣接しているいわば大学街なのである。カルチェラタンと言っても良いのだろう。学生街には安い食堂や本屋、「黒沢楽器店」とかパソコン屋がつきものだし、全く相似している。今からは想像ができないがそのお茶の水は明治や中大の、そして医科歯科大や日大の赤いへメットをかぶった社学同(ブント)を中心にした学生運動の一大拠点であり、新宿に次ぐ自由の天国のような若者たちの街であった。お茶の水の街にベトナム反戦闘争などの戦いが起きれば、すぐ飯田橋から白ヘルの法政の中核派の2000名が、本郷の東大や早稲田あたりからは青いヘルを被り武装した解放派や黒ヘルのノンセクトラジカル1000名の学生が一斉に駆けつけ、更に日大経済や文理などの全共闘の黒や銀、あるいはみどり色の戦闘部隊が数千名合流して、機動隊と対峙し戦闘を展開していた街であったのだ。

その上シンパやけしかけるサラリーマンやおっさんたちの群衆はすぐに万単位となり、機動隊を数の上でも凌駕する学生たちと市民のデモと隊列が出来ていたものだった。この極色彩のヘルメットの軍団の喧噪と騒擾は何かに突き動かされて、迷動していた幕末の尊皇攘夷の若者たちの武装した祝祭とどこか類似している様にも見える。大佛次郎「天皇の世紀」を読んでいると更にそう思う。心情は同位相なのだ。でも絶対の勤王と絶対の排外攘夷への衝動だけで自尽できる負のエネルギーに満ち満ちていた明治革命の第一段階の幕末と1960年代の僕らとは違いははっきりしている。

1960年代に起きた学生や若者たちの世界の反乱は個人のライフスタイルも、社会のシステムも、芸術の領域もパラダイムシフトしてゆく時代の、あらゆる世界性や都市性も含有していた。ベトナム戦争に反対するヒューマンな心情を僕たちは紛れもなく堅持していたものの、情報社会という魔物はテレビという堅牢なイデオロギー装置を市民社会に送り込み、あらゆるものを相対化してしまう「思考セオリー」を僕らの革命性の隣りに潜伏させたのだった。だから、僕らは若者としての想像力とポップな感性を肉体に搭載してはいたが、「何かが違う。こうではない!」という焦燥と体内に迸(ほとばし)っていたエネルギーを思想として止揚できず、結果次の時代からの回答をうまく得られず、70年代前半に無惨にも自壊し、霧消していった。結局、その後僕たちは高度資本主義のまっただ中で生きて、40年間働き続けてきた。
森田童子の歌に「みんな夢でありました」というのがある。

♪♪ あの時代は何だったのですか あのときめきは何だったのですか
みんな夢でありました みんな夢でありました
悲しいほどに ありのままの 君とぼくが ここにいる

ぼくはもう語らないだろう ぼくたちは歌わないだろう
みんな夢でありました みんな夢でありました
何もないけど ただひたむきな ぼくたちが 立っていた

キャンパス通りが炎と燃えた あれは雨の金曜日
みんな夢でありました みんな夢でありました
目を閉じれば 悲しい君の 笑い顔が 見えます

河岸の向こうにぼくたちがいる 風のなかにぼくたちがいる
みんな夢でありました みんな夢でありました
もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか

で、話はレータンギーという街だ。僕の始終動いている界隈の或る路地に8月頃から、50才代と思われる乞食のおっさんが住み着き始めた。はじめの一週間は2メートルのばかりの道幅の片側の家屋の煉瓦壁に背もたれて座ってばかりいた。手持ちの家財道具もほとんど見あたらないので、はじめはその家のカカァに追い出された哀れな親父と思っていたが、10日もすると、2メートル幅の半分を占めた大きさに箱とか板きれなど組み立て始めていて、2週間ぐらいで僕がハノイに戻ったときは、いっぱしの小屋が建築されていた。日本のホームレスのおじさんの特許は青いビニールシートだが、彼は建築現場からいただいてきた青赤シート、昔海水浴で僕らが海に持って行ったそれだ、を器用に屋根や壁面に使用していて、きりっと締まった家屋に仕上がっている。もともと器用なベトナム人、家も建てればオートバイも直す。こんなビニール小屋など朝飯前ってものよ。彼がいつも背もたれしている壁の家の軒先は結構大きく、もともと、風雨をしのげる構造になっている。屋根など作らなくても良いのに、器用さともの作りの心が、屋根と天井までこさえてしまった。

僕は彼とお話ししたことはないが、いつもたいてい新聞や本を読むか、瞑想のように足を抱いて鎮座している。白髪に頬が痩けた面構え。彼は何者なのだろうか。不思議な事はどうも誰も立ち退きを迫ったり、追い出したりしていなそうだということだ。やはり、そこの家の親父なのかしら。日本の住宅街や商店街に一角に、路地とは言え、2メートル幅の路の半分を家にしてだよ。小屋を造る前に多分誰かが退散を迫るだろう。ポリスも来るだろう。でも、この4ヶ月見事に安泰なのである。「乞食」とは言え彼にも仕事がある。毎朝、側面の壁をお世話になっている家の玄関周りと周辺の道路を律儀にも掃き掃除しているのである。近隣と衝突を避け生き抜く彼の妙技なのであろうか。彼には彼の身を落とした何かの意志が見え「ホームレス」などという半端な形容はしたくないね。この項続く。

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