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2010年12月9日木曜日

ジョン・レノンの死と僕らの死

12月8日は、言うまでも無い、ジョンレノンの命日だ。今でも鮮明に覚えている。1980年12月8日日本時間4時頃僕は何故か喫茶店にいた。ある会社のお客様と一緒だったと思う。店では何人ものサラリーマンたちが、いつもより新聞を大きく広げ、紙面を目で追っていた。そういう人が、4人も5人もいた。ちょっと異様な風景であったように記憶に染みている。で、紙面を大きく広げている人たちは、集中していながらも連れの相方となんとかなんとかと、話していた。普通じゃあないのだ。紙面の端に大きな黒地の大見出しが見える。大きな事件か事故の際にみられる紙面のレイアウトとレタリングだ。ぼくは、ためらうこともなく、隣のボックスの30才ぐらいの新聞を大きく広げている人に聞いた。

「何かあったのですか」と。彼もためらうことなく、むしろ第一発見者のような顔つきで僕に言った、ジョンレノンが殺されたんです、と。そうか、やっぱり大事件が起きていたのだ、それもあってはならない事が起きたらしい。ジョンが撃ち殺されたのだという。僕は隣のボックスに身を乗り出してその答を聞き、紙面の一部を見せてもらっていたので、反射的に僕のテーブルの対面にいる親しいお客さん、彼も僕の世代だ、に振り返って「ジョンレノンが・・」と言ったら、彼もつぶやくようにあああ、と血相を変えた面持ちで言った。これから来る時代の不安というか、黒い色の苛立ちが1980年12月8日のこの新宿の喫茶店の空気を支配していたとその時感じた。

その後の記憶は一切無い。その夜はどんな夜を過ごしたのだろうか。当時妻晃子の実家の一角に居を構えていた僕は、多分ビートルズの曲など聴かずに彼女と過ごしたと思う。沈黙しジョンレノン以後の世界について話していたのかもしれない。聡明な晃子は彼の死に振り回されることないように僕に何かやさしく意見していたんじゃあないかと思う。ともかく、まったく、記憶の破片もない。ただ、紛れもなく記憶しているのは次の朝に車の助手席にいたことだ。僕はカーラジオから流れる追悼の「イマジン」や「マザー」を聞いている訳でもないのに涙が止めどなく溢れ静かに泣きながら、目的地に向かった。もちろん、なぜ車に乗っていたかも忘れた。電車のつり革に掴まりながら、車窓から見える朝の明るい朝日に描かれた移り動く風景をぼんやり見つめながら涙していた記憶もあり、同じ日なのか、次の日なのか。

ここに、多くの友人たちの死も書こうと思ったが、まだ時期は早すぎるらしく、キーボード打つ指先に力も魂も入らない。情景だけが浮かんでも、文はまったく浮かんでこない。ちょっと中断。と言うより、中止の模様。

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