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2010年4月12日月曜日

★ 行方なきこころの貧困

先ほどまで、NHKの深夜で「自分の聖地」を紹介する番組をやっていた。プロジェクトXに出ていた国井雅比古アナと阿川佐和子が司会していた。100年前の大正後期に人工的に創られた明治神宮の森。その森の苗木は全国国民から10万本ほど寄進されたもので、それをボランティアの若者たちが6年の歳月をかけて完成させたものらしい。しかも計画の当時に、150年後には人間の手を今後借りなくても自立的に成長発展できる鎮守の森となるように計画されていたという。更に誰が送った樹木が何処に植えられているかの記録も正確に残っている。番組ではインタビューに答えていた福岡の90才代の老婆の父と近所の方たちが当時、魂を込めて送付した樹木の行方の蒼々と茂った巨木になった写真を見て驚き安堵し森に感謝をしていた。彼女にとっての聖地となったということだろう。また、自殺願望の男が羽田空港のレストランで飛行機の発着を長い時間眺めることによって、別な生き方の可能性と希望の兆しをイメージできるにいたり、新生の発進となった羽田の滑走路は彼にとって聖地となった。また、ある初老の女性の癌患者にとって、沖縄戦で逃げ込んだ少年たちがそのまま米軍に焼き殺された洞穴が、自分の祈りの聖地だという。人々の多様な聖地を紹介していた希有な番組であった。

最上川の流れのうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困

斉藤茂吉の心の聖地であったということで、最上川の滔々とした流れの映像もこの番組に出てきた。彼の主要な歌集「白き山」の一つの歌らしいのであるが、この短歌に打ちのめされた。この歌が詠まれ、画面にこの歌の文字が浮かんだ後、番組の映像も音声も僕には認識できなくなり、一度倒れるようにベッドに入りいま、意を決して布団をはいで、今このPCに向かっている。この歌は、別に難解な精神性が複雑に入り込んでいる物でもなく、素人の僕がそのままに理解出来て解題出来る作品だと思う。「浮かび行け!」「行方なき」「われのこころの貧困」これらの言葉は、激しく胸を打ち、心を揺さぶる。だけれども、なんなんだよ〜〜、茂吉が自らを「こころの貧困」って、言ってしまって。高名な歌人であり有力な医者である茂吉が、自分の心を貧困とつぶやいてしまえば、ぼくは以後何を語れよう。多分誰しも言葉を失い身体全体から脱力せざるを得ない。失礼ですが禁句じゃあないですか、それって。大茂吉が詠んだら、卑怯じゃあないですかといいたくもなるぐらいギリギリのところを考えて刻んだ言葉なのであろう。僕ら市井の人間のこういった反論に似た異論の生起も充分に計算された上での表現なのであろうと思う。それを理解した上で、この短歌は今のぼくに重すぎる荷を背負わせた作品として、記憶に刻んでおくことにした。

先の項で日本文学の古典をキチンと学んでいないことを吐露したが、晶子も正岡子規、伊藤左千夫、そして、この茂吉も詩歌はほとんど読んで居ない。ぼくは中学校で斎藤茂吉には「赤光」という短歌集があるということだけを学び、一句か二句を授業で諳んじたに過ぎない。唯それだけにすぎない学び方であったのだ。心の貧困、知識の貧困。これから先「行方なき」自分の道をどの様に模索したらいいのか。ますます皆目解らない状態に入っていくような気がする。もう一回、声を出して諳んじてみよう。   「最上川の流れのうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困」

昨日、井上ひさしさんが癌で亡くなられたという。言うに及ばず「ひょっこりひょうたん島」の作者だ。「吉里吉里人」「ドン松五郎」戯曲「天保十二年のシェークスピア」「自家製文章読本」とか、ぼくが読んだ物はさほど多くない。彼は山形出身のようだが仙台の高校(仙台一高)出身であり、ぼくの実家のご近所の俳優菅原文太さんの友人でもあったということもあって、昔から親しみを覚えていたし、彼の文学作品や評論集、また彼の平和への熱心な行動に敬意を持っていた。ともあれ、井上さんは、文体の天才と思う。柔和で微笑を誘う文体と展開は、野坂昭如さんと双璧だろう。あまり知られていない中編だが「青葉繁れる」という作品は彼が孤児院から通学していた仙台一高時代の懐かしさに溢れた佳作だ。村上龍の高校物「69」ほどの大暴れはないが、蛮カラ少年たちの仙台グラフィティーと言って良い。ご一読を勧めます。東北の魂を持つ才人に心から合掌いたします。
* 俳優菅原文太さんの実家はぼくの家の近隣で、歩3〜4分のところにあった。文太さんのご尊父は西洋画家でぼくの父と親交があり、ぼくも父と一緒に時折そのモダーンで植物に囲まれたアトリエ兼ご自宅に遊びに行っていた。ぼくが小学1〜2年生である当時には、文太さんは不在であった。仙台一高を卒業し早稲田に行ってしまっていた時期だと思う、一度もお会いしたことは無い。それから15年後、1970年頃ぼくは助監督をしていた練馬の東映撮影所で一度か二度すれ違ったことはあった。人気を博す「仁義なき戦い」の直前の頃である。文太さんは「仁義・・」で主に東映京都スタジオに行かれた。

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