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2009年12月28日月曜日

家族の肖像

昨夜、中勘助の「銀の匙(さじ)」を読み始めたら、急に家族が愛おしくなり、その分寂しさが募った。僕には三つの家族が存在する。ルキノ・ビスコンティ監督の「家族の肖像」をなぞってこのタイトルにしたわけじゃあない。歴史の狭間で倒壊してゆく貴族の家族とは、違うからね。まず、僕にはベトナムに家族がある。仕事のパートナーでもあるVUONGと、娘のLINH。今年は、不況の荒波の中で家族として一緒に居られる時間が激減してしまった。今年は例年と違って、彼女の誕生日もクリスマスも、ぼくの8月の誕生日も一緒に家族としてお祝いをすることすらが出来なかった。例年より大分少なく90日ぐらいしか、ハノイに居られなかったのである。10月のLINHの誕生日だけは、幸い辛うじて一緒に家でお祝いができたが・・。近日もらったブオンからのグリーティングカードはとっても心がこもって、制作に時間もかかった物と思われるうれしい、かわいらしいカードであったわけだが、彼女の言葉には意図せずも「来年はたくさん、一緒に家族でいましょうね」と英語で認ためてあった。そうだね、来年はできるだけ一緒に居ようね。食事もLINHの学校のことも一緒に悩もうね。心優しく、この一年の困難を一生懸命に支えてくれたブオン、本当にありがとう。ブオンの肖像は時間をかけて描写したい。この母子は、僕の新しい大切な命であるからね。今日は「ごめんね」と言う範囲でしかここに書けない。

もう一つの家族は娘のはるひと一行だ、そして、彼と9月に結ばれた嫁さんの紘子さんだ。12月20日は、亡くなった妻晃子(てるこ)の命日。最期は2003年だから、まる6年経過した訳だ。自分の愛する妻が病死してしまう人生を僕が歩むことになるなんて、全く信じられない。が現実は、既に7年目に入っている。彼女と僕は32年生活を共にした。楽しみとか、価値観の共有とかあらゆる事を共にした32年であったように思う。彼女は発病して10年間病魔と闘い続けたが、56歳で天命に従った。その10年間、僕は何をしていたのだろうか。彼女の孤独とか、悲しみや不安に僕は応えてあげられなかった。どう悔やんでも遅いのだが。

晃子の肖像を何時か書かなければならない。ただ、彼女を書くことは、僕自身の内部を誠実に切開せざるを得ないだろう。とてつもない刻苦を身に受けつつ書き進めることになろう。今日は、何も書けない。何時書き始めるのかも、良く分からない。最近、やはり自分も老境なのだなあと感じる。はるひと一行への愛おしさに自然に浸ることが出来てきたもの。出来るだけ会う機会を作って、普通のオヤジとしての会話をすこしずつ、していかねば。子供たちには晃子の人生を伝えたいし、な。僕の義務だ。30日にこの3人(はるひ、かずゆき、ひろこ)と会った。家でぼくは、4人家族として酒を交わし、張り切って手料理を振る舞った(ここだけ31日加筆)。

もう一つの家族は仙台の父親94歳と、母親85歳と、彼らの世話をしてくれている弟とその家族の事である。以前に書いたが、大学七つに籍をおいていた学者肌の教員の父の子供として生を受けた僕。田舎の地主の気丈夫な美しい娘であった母から生をもらった僕。
僕は、この三家族の中で生きている。と言うより、地球上の生のよりどころの在処をここでしか見つけられないのだろうなあ。そういう運命の中で、僕は61歳の自分をどのように見詰めていけば良いのだろうか。どのように思考していけばいいのやらも良く分からない。何時か、何時か、そして何故か、この地上の悲しみに耐えきれず、号泣したい想いが強いことに気がついた。誰に何を叫びたいのか。号泣したい欲求が、肺腑の下あたりに堆積しているような感じ。不思議な感覚だ。この俺が屹立したまま涙を拭こうともせず大声で泣くのだろうか。

「銀の匙」については11月3日のこの欄に書いた。神戸の灘校の国語の1年間はこの「銀の匙」しかやらなかったらしい。あの灘校は、つまらぬ受験用ハウツー学習などせず、何十年もの間、ある教員の下これだけに集中して、国語と文学を体得していたという。その本質的な凄さに驚いて、やっと最近買い求め、読み始めたと言う訳なのだ。

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