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2009年5月6日水曜日

いま僕の心に響く歌、ふたつ / 映画「東映東制労の闘い」

まずは5月4日の項に記載した映画の紹介をしよう。何故かオリーバー・ストーン監督の作品を意図せず4本借りた。
「天と地」見たのは何回目か。言わば「ベトナム戦争に翻弄された女性」の一代記。佳作。当校の教員とか今まさにベトナムで仕事をしている方にはぜひ、理解の一環として見ていただきたい作品である。

「JFK」言わずとしれたケネディ暗殺の深層(真相)に迫る裁判映画。ゴダールは政治映画でなく映画を政治的に撮る、と40年前名言を吐いたが、正にこの映画はそこがすごいのである。この暗殺を核とし弟ロバート司法長官やキング牧師の一連の暗殺は「アメリカ軍需産業と米軍(CIA含む)一体となって起こした、(ベトナムからの軍の撤退を計画していたケネディへの)軍事クーデターだと断じ、ジョンソン新大統領を名指しで真犯人の一人」と言い切っているのである。この勇敢なシナリオと反戦派オリバーの制作にハリウッドは数十億円の資本を投じ、映画化しているのだ。まずは、そこがすごいね。「当たる」事を前提にしてるハリウッド資本の決定とはいえ一筋縄ではいかないハリウッドの神髄の一端が見える傑作だと思う。ロードショウで見た当時、アメリカ映画人の凄まじい決意の炎に感銘し涙がにじんだ覚えがある。

「プラトーン」オリバー・ストーン監督の従軍経験をシナリオ化した名作と言えるだろう。戦場での心の中の分裂を具象化したモノだ。ベトナム戦争を描いた最高の映画の一つ。
「ナチュラルボーンキラーズ」真実の愛の成就を殺意と殺人でしか表現できない若い男女の幼さと悲惨さそして、切なさ。世界中で上映中止騒動を巻き起こした。まあ、見ててうんざりする殺人の連続。

”口直し”で借りた訳じゃあないが、同日たまたま借りて見たのが、ジョン・フォードの初期の名品2作。
「我が谷は緑なりき」アイルランドの炭坑で働く、信心深く誠実で質素な大家族の物語である。心が洗われる思いがする。人間、こうでなくちゃあね、と、ひとりごちる。1940年代はこういう作品がアカデミー作品賞・監督賞(1941年)であったのだ。モーリン・オハラが本当に美しい。

「怒りの葡萄」スタインベック原作。アメリカが内部で抱える貧困と差別に、高貴で優しくかつもの悲しい表情を湛えた男ヘンリー・フォンダの闘いが始まる。上記と同時期のアカデミー監督賞(1940)である。生き方の原点をじっくりと思い起こさせる名作だね。

「バートン・フィンク」コーエン兄弟のシナリオ作家は大変なんだ、とわめきたい作品。
「ドッグヴィル」デンマークの映画らしい。ニコール・キッドマン主演。結論から言うと、すごい映画です。ブラジル映画「シティオブゴッド」を見たときの衝撃に近いラジカリズム。後半引き込まれ、最後は唖然となる。ただし、舞台中継の様な演劇的空間で進行する(つまり、壁やドアもない抽象空間の芝居の中継さながら)ので、始めの30分は我慢比べ。なんだこいつは・・とぼやくでしょうね。
「アバウトシュミット」ジャック・ニコルソンらしい芝居が満載のリタイアの親父のロードムービー。お勧めだね。

さて、映画「東映・東制労の闘い」
東京の練馬区大泉に東映東京撮影所があり、そのなかにテレビ部門の「東映東京制作所」があった。1974年の事である。そこでは、「キーハンター」「プレイガール」「柔道一直線」「刑事くん」「アイフル大作戦」など、主にアクションテレビ映画が作られていた。・・・中断。
というのは竹内まりやさんの「人生の扉」がNHKから聞こえてきたのだ。初めて聞いた。
ゆったりとして、淡々とした中に当たり前の時間の流れが描かれ行く。震える感動。名曲です。
今頃言うのは相当恥ずかしいのかも。「不思議なピーチパイ」の竹内の一つの到達点だろうなあ。

  • Uta-Net
作詩:竹内まりや 作曲:竹内まりや
春がまた来るたび ひとつ年を重ね
目に映る景色も 少しずつ変わるよ
陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 越えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ

I say it's fun to be 20
You say it's great to be 30
And they say it's lovely to be 40
But I feel it's nice to be 50

満開の桜や 色づく山の紅葉を
この先いったい何度 見ることになるだろう
ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ

I say it's fine to be 60
You say it's alright to be 70
And they say still good to be 80
But I'll maybe live over 90

君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わい増すように
長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ

I say it's sad to get weak
You say it's hard to get older
And they say that life has no meaning
But I still believe it's worth living
But I still believe it's worth living

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、この際、もう一つ最近感銘を受けた唄。いままで、聞き流してきたのが、これも恥ずかしい。「千と千尋の神隠し」の《いつも何度でも》だ。あらためて、言葉の無限への自在さが解る。さわやかに、心を揺さぶる。ゆっくり読んでほしい。

 さよならのときの 静かな胸
 ゼロになるからだが 耳をすませる
 生きている不思議 死んでいく不思議
 花も風も街も みんなおなじ
 ララランランラランラーーーランランララン
 ララララランランララランラララランラララララ
 ホホホホホホホホルンルンルンルフフフフフ
 ルルルルルンルルルーンルルルー



 呼んでいる 胸のどこか奥で
 いつも何度でも 夢を描こう
 かなしみの数を 言い尽くすより
 同じくちびるで そっとうたおう

 閉じていく思い出の そのなかにいつも
 忘れたくない ささやきを聞く
 こなごなに砕かれた 鏡の上にも
 新しい景色が 映される

 はじまりの朝の 静かな窓
 ゼロになるからだ 充たされてゆけ
 海の彼方には もう探さない
 輝くものは いつもここに

 わたしのなかに
 見つけられたから
 ララランランラランラーーーランランララン
 ララララランランララランラララランラララララ
 ホホホホホホホホルンルンルンルフフフフフ
 ルルルルルンルルルーンルルルー 

・・・・・・・・・・一通り終わったところでまた「東映東制労」の映画に話を戻す。
東京の練馬区大泉に東映東京撮影所があり、そのなかにテレビ部門の「東映東京制作所」があった。そこでは、「キーハンター」「プレイガール」「柔道一直線」「刑事くん」「アイフル大作戦」など、主にアクションテレビ映画が作られていた。
当時、ここでは大卒で給与3万円。通常の企業なら5〜6万円の時代に。撮影所であるので、一定の深夜作業は当然だが、徹夜の連続もだれも文句を言わないものなら、数日もつづこうと言う劣悪な差別的環境であった。時代は全共闘が敗北し、残党や多量のシンパが市民運動や労働運動へ流れ、運動を継続していた頃でもあった。時代に「闘う」気分の名残がまだ大分あったといっていい。

この映画は、組合を結成した13名の映画労働者(助監督9名、カメラ助手2名、記録1名、編集1名)が全員解雇にあい、それに抗するために「無期限ストライキ」で闘った記録映画の第一巻である。
1974年の1月の事だ。東映には全国組織「映演総連」を構成する正社員の労働組合「東映労組」があるが、彼らは当時の”民主連合政府路線”に基づいて、我々の闘いに与せず、事もあろうに東映資本と歩調を合わせ、13名の東制労の自然発生的な闘いを押しつぶそうと計った。東制労は契約者(正社員でない、いわばフリーの、正確に言えば臨時工)の組合であった。もともと組合活動なるものに関心のなかった人やフリーで自立してる生活信条の持ち主が多った。逆にいえば素朴で真っ当なことを純粋に正面切ってもの申す「労働運動素人」集団であった。その分だけラジカルであるし、失うモノもためらうモノも何もなかった。

したがって、我々の登場は東映資本にとっては寝耳に水だし、既存の東映労組にとっては、「嫌悪の全共闘(風)の発生」であった。我々は「窮鼠猫を咬む」勢いで双方を翻弄し突っ走ったのであった。我々と記したのは、実は僕阿部は1970年3月映画制作を学ぼうとこの製作所に入ってきていた。この映画が始まる1974年1月は結婚2年の25才、組合の中で一番の年少者で、且つ13名中、早稲田出身が6名。僕はまったく末っ子的な存在ということになっていた。僕はこの仲間たちを心から信じ寝食を共にして約10年間(闘いは実は組合結成の前、69年頃から始まっていた)彼らと共に新しい労働運動の思想と形態を求め闘い続けた。極めて特徴的なことは安易に正社員になるための運動でも、「労働条件の緩和を勝ち取る」運動ではなく契約者(臨時工)で有り続けることを前提として「労働とは何か」「労働者とはなにか」を根底から「生産点」で問い続けるものであった。

この闘いの継続は、13名だけではあり得ず、東映労組の異端派が多い演出部(監督や助監督)などの社員十数人の戦闘的シンパサイザーや東制労と同様な環境に置かれていた撮影所の「東契労」20数名との連帯、京都東映撮影所の協力者たちによって大いに支えられてきたことは明記しなければならない。この映画「東映・東制労の闘い」は斬新で手作りの闘いを進める二人の女と11人の男たちの「怒れる葡萄」と言えよう。
この映画の時点から約5年後の79年、東制労の「生産点」実力闘争は、東映資本から圧倒的解決金と就労を勝ち取り、全面的に勝利し終結した。

次回はいつになるか解らないが、「スタンドバイミー」や「アメリカングラフティー」のセオリーを踏襲し、13名とそれを取り巻く人々のその後の人生を少し、綴っておきたい。
著名なマンガ原作者になった者、有力なドキュメンタリストになった者、東映でプロデューサになり定年後ハンガリーで日本語教師になっている者、中国ビジネスの猛者になった者、そして亡くなった友・・・・。
続編も作製したのだが、管理が悪く、現在見つかっていない。

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